第1.5話

畢生の志 『思春の森』について



 なぜ、第1.5話かというと、第1話で第2話は80年代アイドル編と予告してしまったのですけど、その後、その前に触れておくべき話題が出てきたので、この部分に挿入となった訳です。
 ズキっちのスイムショーツよもやま話
 第1.5話「畢生の志 『思春の森』について」

 畢生の志(ひっせいのこころざし)という言葉がある。文章語で、あまり口に出して言う言葉ではないが、一生を掛けた望みといったところだろうか、昔の人は立派な事を志としたのだろうが、私の場合は少し違う。
 70年代の終わり頃で、最も印象に残ったのは、「思春の森」である。事前の広告では、このイタリア映画はタイトルのとおり、思春期の初めにある12・3歳の二人の少女が、湖で全裸で泳ぎ、少年との性行為のシーンもあるとされていた。私には期待するなという方が無理な映画と言えた。
 それで、公開初日(79年2月11日)、雨をものともせず、有楽町の映画館に出かけたのだが、観客は皆がっかりして映画館を後にすることになった。期待のシーンはほとんどカットされていたのだ。年少者の性描写が問題なら、R指定でも、X指定でもすればいいようなものだが、登場人物が子供なのに18才未満お断りでは、おかしいからこうなったのだろうか。後にはも暗い、思考ばかりが先行した映画だけが残った。80年代に入ってからのいわゆるロリコン・ブームの際、この映画が「出来損ないのチャイルド・ポルノ」と評されたのも、仕方のないところである。
 でも、私は当日、別の経験をした。水泳の用意をして映画館に行き、終映後、あるプールに向かったのである。
 真冬で雨降りとあって、ガラガラだった。更衣室にも誰一人いないので、周りを気にせず全裸になり、当時愛用のセシールのワンピース用スイムショーツを着けた。そして初めて後ろの洗面台を振り向いた。
 洗面台には全身が映せる鏡がある。そこに、ベージュのスイムショーツ姿の私が見えた。自慢する訳ではないが、白い肌である。それから買ってきた「思春の森」のプログラムを取り出して、裸の少女たちと少年の写真を見つめた。すると、なんとなくこの物語世界の一員になれたような、自分があの少女たち、まだ女になっていないあの存在に近づいた様な気がした。言うまでもないが、この映画の中の少女たちはスイムショーツを着けてはいない。裸である。でも私にとっての「裸」とは、スイムショーツを着け、それが体に溶け込んだ、その姿なのだと感じていた。
 しばらくそのままでいて、シャワーを浴び、また体を鏡に映してみたが、スイムショーツが濡れて透けてしまえば、ブザマなものが見えてしまう。もう、あの感覚はなかった。
 海パンになってプールへ行くと、あろうことか、高校生位の女の子が二人で泳いでいた。プールを2〜3回往復するとプールサイドに腰かける。その度に、二人ともクッキリとショーツラインが見えた。こんなこともあるんだなぁと、私は水にまったく入らず、ずっと見つめつづけた。

 畢生の志(ひっせいのこころざし)という言葉がある。文章語で、あまり口に出して言う言葉ではないが、一生を掛けた望みといったところだろうか、昔の人は立派な事を志としたのだろうが、私の場合は少し違う。いつか、白い肌の少女(色の黒い娘はダメ)と、この「思春の森」の様に湖で泳ぎたい、できればお揃いのスイムショーツだけを身につけて。あいにく、この畢生の志は、今のところ実現はしていないが。
 もう、この辺でいい加減にしよう。このページに集う3,000万人(推定)のフェチの皆さんには、私がスイムショーツにのめり込んでいく様を、トレースしてもらえたろう。私の中の幼女趣味やナルシシズムについても。

次回は、ようやく第2話「80年代その1」です。何からお話しようか。やはり、「あ〜。その水着はマズイぞ!三田寛子!」からだね。



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