第2話

アイドルのスイムショーツ事情 80年代編



 80年代に入っても、スイムショーツの市場には大きな変化はなかった(と、当時を振り返って思う)。80年代の初め、新宿の三愛の水着売場を覗くと、スイムショーツのコーナーに、「ショーツは絶対必要です」と小さな張り紙があった。三愛の客層は、ファッションに関心のある若い女性が中心だろう。その店ですら、このような注意書きを必要とした位だから、普通の水着売場は推して知るべしである。今でも、ないことはないのだが、股の部分を除いて、全体がメッシュ、つまり網の目になっているスイムショーツが、当時は随分幅を利かせていた。網目なら、水切れは最高だろう。しかし、そんなもの水着の下に着けて何になるというのだ?透け防止、股割れ防止、全くダメだろう。
 そんな具合だから、当時のアイドル達と言えどもスイムショーツに感する意識は通常の女子高生と大差なかった。だから、アイドル水泳大会は今日とは比べ物にならぬほど、スイムショーツラインが鑑賞できた。松田聖子などは、ラインでなく、スイムショーツ(コットンのショーツだった、多分セシールの1200番)がはみ出しているのが大写しになり、ファンとアンチ聖子の間で大いに話題になったものだった。だが、この時期、忘れられないのは、82年1月3日にTBSで放送された、「新春オールスター水上大運動会」での出来事である。
 先の松田聖子の時もそうだが、水泳大会で一番危ないのは(期待するのは、というべきか)騎馬戦などではなく、滑り台の逆上がりのゲームである。濡れているから滑る。当然尻をつき出す形となり、ラインが浮き出る。上手く滑り台を上れずモタモタすれば、その時間が長くなる。こうなってくれるのが理想であろう。この水泳大会でこの条件をすべて満たしてくれたのが、三田寛子である。しかも、ラインではない。テレビで見てはっきりそれと分かるくらいスイムショーツそのものが透けてしまっていた。彼女が着ていたのは、メーカーは不明だが競泳水着で、背面部分はほとんど透明になってしまっていた。下に着けていた、白のワンピース用スイムショーツも透けて素肌まで分かった。
 おまけに三田寛子は、鈍いことで有名なアイドルで、後に国生さゆり等と陸上部のドラマを演じた時、国生が100m走る間に50mしか走れなかったくらいの運動神経の持ち主で、いつまでも滑り台の下の方でもがくばかり。これには司会の山田邦子と片岡鶴太郎も、どうフォローしたものか分からず、それまでうるさいくらいだったしゃべりが一瞬止まってしまった。もちろん、次に三田寛子の登場したゲームでは、鶴太郎がさかんに「おぉ三田寛子ちゃん。下半身が白く浮き出ていますねぇ」などと繰り返していたが。芸能人水泳大会はその後も随分見たが、ここまでのものはもう2度となかった。水着のブラがとれて、乳房が露出するなんてのは、どうでもいいので、スイムショーツがきれいに浮き上がる映像をもう一度見たいものだが、透けない素材が主流となってしまった現在、望むべくもないだろう。
 アイドルというのは、テレビか写真かを問わず、一度スイムショーツがあからさまになると、それ以降、過敏になり二度と薄い生地、薄い色の水着にならない事がある。この頃の例としては、相本久美子や香坂みゆきがそうで、二人とも男性週刊誌にスイムショーツが透けた水着写真が載って以来、ジーンズのボトムや黒のワンピースばかりになってしまった。
 さて、三田寛子はスイムショーツをテレビで全国に放送され、以降どうしたのだろう。私は知らない。唯一、97年になって、あるプールで「よーし今日は、バタフライをやってやろう」思い立ち、泳ぎ出したら、夫(歌舞伎役者だ。確か)が慌てて監視員を呼び、「大変です。女房が溺れました」と言っていた、と本人が話していたのを知っているのみである。

 次回は、80年代後半「ハイレグがスイムショーツにもたらしたもの」です。


訂正:第1話で山口百恵の映画を「エデンの園」と書きましたが、「エデンの海」の誤りです。ゴメン。



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